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本能寺 気の合う住職と堅固な守りが決め手?信長公の「京の定宿」とされた法華宗の大寺院

(散策コース:京都(2))

京都の寺町御池、京都市役所のちょうど向かいに、本能寺という比較的大きなお寺があります。

このお寺は、法華宗(本門流)の大本山。

しかし、本能寺と聞いて、「本能寺の変」を思い浮かべる方はかなり多いのではないでしょうか。

今回は、織田信長とのゆかりの深い、この本能寺をご紹介します。


本能寺の変とは?

本能寺と織田信長

現在の本能寺の見どころ

本能寺の変とは?

本能寺の変とは、天下統一を目前にした織田信長が、配下武将の明智光秀の謀反によって自刃した、日本歴史上の一大事件。

当時、織田信長は、中国地方の毛利氏攻めを担当していた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)を支援するため、居城の安土城から西へ向かう途上でした。

一方で、丹波亀山(現在の京都府亀岡市)の明智光秀も、秀吉の援軍として中国地方へ向かう予定となっていました。

信長は、わずかな供とともに京の本能寺に宿泊していたのですが、そのときに、明智光秀が謀反を起こしてその軍勢を京に向け、本能寺に攻め寄せたのです。

織田信長は、自らも得物を持って奮戦の末、自害したとも言い伝えられています。

本能寺の変によって織田家の天下統一は挫折しますが、その「統一事業」は、主の仇として明智光秀を討った秀吉によって受け継がれ、全国統一が一気に進むことになりました。

本能寺

本能寺と織田信長

織田信長は、比叡山延暦寺の焼き討ちや本願寺との戦いなどから、一般には「仏敵」のイメージも強い人物です。

しかし、実際には仏教の全てを嫌っていたわけではありません。

例えば、当時の本能寺住職であった日承上人には深く帰依していたとも言われています。


また、当時の本能寺は、広い境内に数多くの宿坊が並ぶ大寺院でした。

その大伽藍は深い濠と高い塀で囲われ、ちょっとしたお城のようなものだったそう。


上洛した織田信長が京で滞在するときには、この本能寺を宿所としてよく利用していました。

その理由は、帰依している日承上人のお寺ということに加え、いざ何か起こったときの防御面での有利さも考えてのことだったのでしょう。

(参考出典:法華宗大本山本能寺ホームページ


しかし、実際に起きた本能寺の変では、信長方がせいぜい百人程度であったのに対して、明智軍は1万人以上。

あまりにも多勢に無勢で、本能寺の堅固さをしても守り抜くことはできませんでした。

現在の本能寺本堂

なお、信長がその生涯を終えた昔の本能寺は、実は、今とは場所が異なります。

当時の本能寺は、現在の場所から南西に600mほど離れた、四条堀川の近くにありました。


「本能寺の変」で伽藍が焼け落ちてしまった後、当初は、その跡地での再建が計画されました。

しかし、豊臣秀吉の命で行われた京の町割(一種の区画整理)のため、現在の寺町御池に移転することになりました。

なんでも、跡地での再建が始まってようやく上棟式というときに、強制的に移転を命ぜられたとか。

「さあこれから再建してやり直すぞ!」と意気込んだ矢先の「移転命令」。なんともやりきれない思いであったことでしょう。


この昔の本能寺の跡地には現在は石碑が立つだけで、当時を偲ばせるものは何も残されていません。

しかし、この地に立って周囲の風景や地形などを眺めつつ、変が起こった時代に思いを巡らせるのもよいかもしれませんね。

本能寺跡

現在の本能寺の見どころ

さて、少々前置きが長くなりましたが、次に現在の本能寺をご紹介いたしましょう。

「本能寺の変」の後も、江戸時代中期の「天明の大火」や幕末の「蛤御門の変」で、本能寺はたびたび伽藍を焼失しています。

現在残る建物の多くは昭和期の再建です。


<表門>

本能寺には入口となる門が東西2つありますが、そのうち、西の寺町通りに面して立っているのが表門。

表門のそばに「大本山本能寺」と記された石碑が立っていますが、これをよーく見てみましょう。

これまで伽藍焼失の歴史を繰り返してきたこともあり、火を嫌う意味合いで、本能寺の「能」の字は、右側のつくりの部分が、「ヒ(火)」ではなく「」になっています。

本能寺表門

<本堂>

表門をくぐると、正面にどっしりとした安定感のある建物が見えます。

これが本能寺の本堂。1928年(昭和3年)の再建です。

大伽藍を誇った昔の偉容の面影を感じさせる、総ケヤキ造りの大建築。

本堂内の拝観は自由。本堂内の正面には、法華宗の宗祖、日蓮聖人の像が祀られています。

本能寺本堂

<信長公廟・供養塔>

本堂にお参りしたら、その裏に回ってみましょう。

本堂裏には、本能寺とのゆかりの深い人物の供養塔が並んでいます。


真っ先に目に入るのが信長公廟

この信長公廟は、本能寺の変後に、信長の三男、織田信孝の命によって建てられたものです。

はじめは、焼失した寺の跡地に建てられましたが、秀吉の命でお寺が移転する際に、信長公廟も一緒に移されました。


なお、本能寺の変ではお寺全体が灰燼に帰したため、信長公の遺骨を見つけることはできませんでした。

その代わりに、信長公廟には、信長公が所持していた太刀が納められています。

信長公廟

信長公廟の左には、本能寺の変で信長とともに戦った配下たちの合祀碑があります。

碑の横に記された戦没者の中には、信長に最も愛された近習の一人で、有名な森蘭丸の名も見えます。

本能寺の変戦没者合祀碑

さらに奥には、信長に協力を惜しまなかった本能寺8世、日承上人のお墓。

なお、日承上人は皇族の出で、後伏見天皇の六世の皇孫に当たります。

そのため、歴代天皇の陵などと同様、宮内庁によって管理されています。

日承上人墓

<大寶殿>

本能寺の見どころをもう1つ。それは本能寺の宝物を保管する宝物館「大寶殿」。

肖像画、直筆書状、愛用の茶道具など、信長公ゆかりの品々を見ることができます。

また、大寶殿では、蛙をかたどった香炉「三足の蛙」も必見。

表情がなんとも愛らしい、本能寺のマスコット的存在のカエルです。

お時間に余裕があるようでしたらぜひ。

大寶殿(本能寺宝物館)

スポット情報

<本能寺>

住所 京都市中京区寺町通御池下る下本能寺前町522
最寄り駅 (地下鉄)市役所前駅すぐ
(京阪)三条駅から徒歩5分
(阪急)河原町駅から徒歩10分
拝観時間 午前6時~午後5時 境内拝観自由 (大寶殿宝物館は有料:一般500円)
ホームページ 法華宗大本山本能寺

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