石舞台古墳 巨大な石組みが露出した特異な外観の古墳
古墳とは、古代に、天皇などの権力者が埋葬されたお墓のこと。
一般的な古墳では、石を組んで造った石室の中に、埋葬者の遺体が収められた石棺が安置されています。
また、石室は、墳土(封土)に覆われており、古墳は、全体として、こんもりとした丘のような形をしていることが多いです。
しかし、数多くある日本の古墳の中で、石舞台古墳は、石室を覆う墳土がなくなって巨石が剥き出しになった、大変珍しい古墳です。
その巨大かつ特異な外観は、一度見たら忘れられない強烈な印象を与えます。
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石舞台古墳の石室の上方は、南北2つの大きな天井石で覆われています。
南側の石が約77トン、北側の石が約64トンと、それぞれ大変大きな石です。
石舞台古墳の石室は、奥の部屋(玄室)内へ石棺を収容するための穴が横に開けられたもので、横穴式石室と呼ばれます。

横穴から奥の玄室へ入ってみると、内部は意外にも大きいことがわかります。
大人の男性でも余裕で立って入ることができ、また、両腕を左右に広げても指の先が壁に当たりません。
また、天井石だけでなくそれ以外の石も、どれもこれも巨石揃い。
これらの巨石は、切り出した場所から木製の「ソリ」にのせ、木製のコロの上を転がしてここまで運んだと考えられています。
エジプトのピラミッドの石を運ぶのと同じ原理です。
しかし、これだけの大きな巨石、たとえソリを使ったとしても、運搬にはかなりの人数が必要です。
また、数十トンもの石を載せるだけで、石を移動させる前に木でできたソリがつぶれてしまいそう・・・。
いずれにしろ、大変な土木工事であったと容易に推測されます。

石舞台古墳の埋葬者は、当時の有力豪族の蘇我氏の長であり、数代の天皇に仕えた重臣、蘇我馬子(そがのうまこ)との説が有力です。
蘇我馬子は、伝来したばかりの仏教を積極的に取り入れ、日本最古の寺院である飛鳥寺を創建した人物。
仏教を崇敬した聖徳太子(厩戸皇子)とも良好な関係を築きました。
また、後代に発生した乙巳の変で、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足によって討たれた、蘇我入鹿は、馬子の孫に当たります。
さて、石舞台古墳の墳土がいつなくなったのかは、現在でも判明していません。
ただ、江戸時代に描かれた絵図には、田んぼの中に、石組みが露出した状態で存在する石舞台古墳が示されています。
このことから、遅くとも江戸時代には既に墳土がなくなっていたようです。

また、墳土がなくなった理由についても定かではないですが、次のような様々な説が存在します。
(1)墓荒らしによって古墳が暴かれた際に剥き出しになったという説
墳土全部を取り除くにはかなりの労働力が必要でしょうから、大規模な墓荒らしでない限り難しいでしょう。
また、墓の盗掘のためだけに、大きな労力を使って、石室の上の墳土を全てはぎ取る必要があるかどうかも疑問です。
(2)乙巳の変で滅んだ蘇我氏に対する懲罰の意味で、蘇我一族を代表する古墳がはぎ取られたという説
これは墓をあばくような行為であり、現代の感覚ではかなり罰当たりの感があります。
しかし、「やるかやられるか」という当時の権力闘争の激しさからすると、決してあり得ない話ではないようにも思います。
(3)周辺の田んぼや畑を開墾するために、石舞台の墳土を削って利用したという説
この説はかなり有力視されています。
墳土がなくなって石室が露出したおかげ(?)で、天井石の大きさを直接感じられるし、石の組み方も一目で分かります。
これが正しいなら、周辺地域の開発が進むにつれ逆に古墳の土が徐々に削られていき、天井石が少しずつ露出していったということになります。
石舞台古墳は、見る人にいろいろな想像を沸き立たせてくれます。
石舞台古墳を訪れたら、ぜひ、直に触ってみてそのすごさを体で感じてください。
石室の中から巨大な天井石を見上げつつ、どうやってこんなもの作ったのだろう??と想像するのも楽しいですよ。
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スポット情報
<石舞台古墳>
住所 | 奈良県高市郡明日香村島庄 |
---|---|
最寄り駅 | 近鉄飛鳥駅から徒歩25分 周遊バス(赤かめ)利用の場合、石舞台下車すぐ |
入場時間 | 午前8時半~午後5時 年中無休 |
拝観料 | 一般250円(高校生200円、中学生150円、小学生100円) |
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